死にたいなあって生きる。


頑張っている人を見ると死にたくなるときがあります。
頑張っている人にはもちろんなんの罪もないのだけど、すごく憎い存在に見えて眩しすぎて辛い辛い。オリンピックとか、私は見てられません。フィギュアスケートなんて以ての外。自分より若い子たちが世界を相手にたった1人で立ち向かうその状況は凄まじい。自分はこんな四角い箱の中で何をやってるのだろうってニュース見るだけで勝手に死にたくなってくる。生きるけどね。

「死にたい」と思いながら生きることは悪なのだろうか?という前々からの疑問。死にたくなりながら生きてくタイプの人間がいたっていいよね。眠たいなー寝たいなーって言いながら夜更かしするようなそれと同じ。睡眠は内的な仮死状態だもの。寝たいけど寝ない。死にたいけど死なない。そういうこと。

今日も死にたくなりながらピクニックに行きたいなあなんて思って、カントリーマアムを買ってきた。カントリーマアムは凍らせて食べるのが美味しい。ついつい食べ過ぎてまた死にたくなった。生きるけどね。

昨日が去年になって今年

昨日が突然「去年」になる感覚に、未だに慣れないのであります。
また新しい年がやってきたのだなあ。
時間の概念ってとても都合のいいものです。本当は区切りなんてなかったのに、生きやすいようにきっと誰かが区切ってくれたのだろうな。何事にも始まりがあって終わりがあるから、今私は生きていられます。感謝。
地球や惑星にとっては今日とか明日とか、1年とかそんなもの全然関係ないのかもしれないね。うるう年もうるう秒も人間が都合よく生きるための帳尻合わせでしかなくて、地球にとっては何の意味もないのだろう。とか、そんなことを考えたりした1月1日8時59分60秒。

せっかく与えられた1年というサイクルを今年もうまく使ってやろうと思います。
2017年、素数。素敵。数学大嫌いだけど素数は謎にわくわくする。

食パンはちょっと高い方が、美味しい。

私の最近の食生活は、納豆ご飯と冷凍うどんとトーストのループ。そりゃたまには包丁を持つことはあるけど、1人で食べるご飯に食べる以上の時間をかけて調理するのがもったいないと思ってしまうようになった。胃が満たされてその日1日お仕事が頑張れれば、それだけで意義がある。料理をするのは食欲以外の目的があるときだけ。将来開くカフェのメニューを考えるだとか、誰かに美味しいものを食べさせたいだとか、もらった食材が腐りそうだとか、健康状態が危いだとか、そういうとき。端から見れば女子力、なんていう言葉からはかけ離れた思考ですね。でも自分的にはすごく合理的な考えだと思っています。

先日いつものように近所のスーパーに買い物に行きました。そういえば、お米が昨日で底を尽きてしまったんだった。でも給料日前だし、今10kgのお米を買うには気がひける。じゃあ今日は食パンを買ってお給料日までトーストでしのごう。そう思って、食パン売り場へ。ループ食材に関しては1番安いものを買うようにしているのですが、この日、いつも買っている70円もしないやっすい食パンが売り切れ。「まじかあ…」と思ったけど、その日は仕方なく120円くらいの5枚入りの食パンを買って帰りました。

次の日の朝、トーストを食べてびっくりしたんです。美味しくて。柔らかくて。たった50円の差でこんなに質が違うのかと思った。バカ舌な方だけど、それでもしっかりわかるほどの違いに朝から静かに騒然としました。

ただそれだけの話なんだけど、こういう感覚って大切にしたいなと思うんです。当たり前のローテーションの中で当たり前になっていたことも、ひょんなことでそうじゃなかったと気づくこと。50円高い食パンがこんなに美味しいなら、400円するあの食パンはどんな味がするのだろう!もしかしたら納豆も全然味が違うかもしれない!そういう興味につながる気づきによって、ちょっと思考がリッチになれた気がしてわくわくするのは私だけでしょうか。本当はこの食パンのことも感情豊かに誰かに話したかったけど冷めた顔をされそうでまだ誰にも話していません。こんな話を面白がって聞いてくれる人とは、きっと仲良くなれると思います。そんなお友達がほしい。

でも今回わかったのは、いつも食べてるパンより50円高いパンが美味しかったということ。決して、高いパンは美味しい、という風に勘違いしちゃいけないのです。だってまだそれ以上に高いパンは食べていないから。いつか有名ベーカリーのお高いパンを1斤、お買い上げしてみたい。

書きたくなるとき

言葉って、文章って面白いな。と、ここ最近改めて感じるようになりました。

ある日、本屋さんでふと手に取った詩集を眺めていました。たまたま開いたページの詩が、言葉が、行間が、美しくてたまらなくてすごくどきどきしました。私の頭の中でぐるぐるしてた形のない何かが、よくわからないけど、すっと、目に見え、音になったような気がしました。

言葉はもっとも身近で、もっともストレートで、もっとも曖昧で、もっとも痛い自己表現なんだと思います。すごく美しいなって思います。もっといろいろな人の言葉に触れてみたいなって思います。人の言葉に触れてみると、自分も何か言いたくなってきます。これもまた痛い部分だと思います。よく作家さんやミュージシャンがSNSに詩的な投稿をすると、それに反応する周りの人たちの言葉まで詩的になっていて、どこか恥ずかしいような、そんな状態になっているのを見かけることがあります。恥ずかしいっ、冷めて見ている自分も実はけっこう色々なことを考えていたりして、発信はしないけど自分の体内でふつふつさせていたりします。愛おしいことだなって思います。今も何か書きたくなって書いています。久しぶりに書き出してみたらなぜかですます調になりました。それも気分。そのときの勢いとニュアンスなのだと思います。

持論が体内で環状線を作り出していることに気づく瞬間が年に数回あって、私はその度に何かしら言葉を書き始めます。今が何度目かのそのときみたいです。名古屋の地下鉄の名城線のイメージです。ローマ字のQを裏返したような路線図。当時街を案内してくれた子が、環状線だけど何かを間違えるとひょいっと輪から飛ばされるんです、って、路線図を指差しながら言っていたような気がします。真実は定かではないけど。たしか金山駅。飛ばされる分岐点の駅。私は今、そこにいます。